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you can go anywhere.

閉塞

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ひとりになりたい。ただひとりの時間が欲しい。それは誰かに与えられたり、たまたま家に人がいない瞬間ではなく、自分の意思で作り出した空間と時間が私には必要だった。

 

その日は24時過ぎには就寝していた。

朝は一度6時に、最終的な起床時間は9時半。

下へ降りると不機嫌な母がいて、どうしたのかと尋ねると無言で寝室を指さす。

「パパが、なに? 」

寝ぼけ眼で欠伸をしながらそう尋ねると昨夜の出来事を話し始めた。

「夜中にね、助けてってLINEが来てたの。何かと思ったけど、どうやら飲み過ぎて気持ちが悪いから迎えに来てほしいって意味で送ったらしくて」

私はおもむろに自分のスマホに表示されていた[新着メッセージ]という通知をタップする。

そしたら案の定、迎えに来て と一言だけのメッセージがそこにあった。

母は眠たげな顔をしながらまた話を続けた。

「吐いたんだよ、玄関の横で」

そのあともまた吐くんじゃないかと気が気でない母は眠れずにいたそうだ。

自分の睡眠時間を削られたことに苛立ちを隠せないようだったけれどそれだけ言って暫くすると眠りについてしまった。父が酒を飲んで帰ってくる度に母は怯えて私に縋る。酒癖が悪いのは父だけではないのに、と甘えてくる母に私は胃を痛めながらいつも宥めた。

私は外に出て吐瀉物を見に行った。

まるで猫が吐いたあとみたいだった。

その日は父の日だった。

 

昼頃起きてきた母はまだ不機嫌を装った。私はこれ以上八つ当たりが酷くならないように気を揉み、明るく話しかけ、なんとか気分を良くしてもらうように努めた。

父はたぶん夕方まで起きない。出かける前に具合を尋ね、なんで吐いたの?と聞くと飲み過ぎたとだけ返ってきた。父が飲み過ぎて吐いた、それだけの出来事は家族内では笑い話のようだけど、またこれは複雑だった。複雑というより、実際どの家庭でもあるのではないかと思う。

 

働きながら家の家事全般をこなす母は常に父への不満が溢れて仕方がなかった。私たちに言えないような酷いこともされた、とよく口にする。私はそれは何かと何度か尋ねたが、父に口止めされているらしく教えてもらえたことはない。

それが何かは分からなくとも、色んな推測を繰り返した私の精神には色々と堪えるものがあった。いつか暴きたいとすら思うようになった。

 

父も母も小難しいことが嫌いで、どんなに大事なことでも話し合うことをしなかった。

議論を避け続ける。

お金の管理は杜撰で、お互いが毎月いくら貰っているのかも知らない。

母は扶養に入っているため稼ぎは一月で全てなくなってしまう。父はその倍以上はあるが、家のローンと携帯代の支払いでほぼ消え、借金をしてパチンコをする。

 

母はとにかく同情すべき人で支えたいと思えるような人ではある。だけど、自分の幼少期のトラウマや抑うつに陥ることに対し、対処する手段を持ち得なかった。 なので子供に激しく当たった。とても、とても 激しく。

 

父は本当にどうしようもない人だった。

憎くても憎みにくくさせる雰囲気を持っていた。天性の人たらしで社交的で愛想が良く口が上手い。

大抵のお願い事は家族であっても他人でもあっても断ることが出来なかった。それを良い人と呼ぶべきなのかはよく分からない。正直それが短所となり損している部分は多くある。

彼は自分がとにかく正しいと考える人であり、人と話していてもマウントを取り自分が常に優位に立ちたがった。とにかく私たちの子供の話や意見すら否定し嘲笑うほどに。

それを愛情表現だの、冗談をわかれなどと抜かすのだが、1ミリも面白くはないしそう感じる度に親子の距離は離れていった。(それでも父の日に凝ったプレゼントを用意したりする)

 

母は深く物事を考えない。その余裕もなければ考えすぎると深みにハマってしまうからだ。

感情が激しく子供達が日々感じている苦痛への共感性は低くとも、父がどれだけだらしなく人を馬鹿にした人であるかというのは嫌というほどわかっていたので、父の愚痴を言えば共感してくれた。 そんな両親の関係を幼少期から眺めていた。そして親と子の関係も歪になった。

 

父が浮気したときにこれで許してくれと大金を母に渡した祖父のことをずっと許すことができない。このことを子供たちは知らない。この出来事が母の精神に害を及ぼしたなんて誰がわかるだろうか。知る由もない。誰も言わぬのだから、知る由がない。

父は祖父をバックに生き残ってきた。会社で横領しても、母や子供たちに酷いことをしても、自分の親/実家という安全地帯に逃げ込んで難を逃れてきた。許すことができるだろうか?

そんな思いを日々抱えて、思い悩み泣いて怒ってとても憔悴している。

 

 

何故こんなことを突然書いたのか。

父の日に祖父母の家で夕食だったのだけど、目の前に並ぶ豪華な食事とプレゼントに、唐突に「何故自分たちはこの人に感謝しなければならないのか?」という気持ちになったから。

 

夕食後に皿を下げ、流しの前に母/私/祖母の順に並んだ。皿を洗いながら私は母と祖母の会話を注意深く聞くようにしているのだが、それは母が溢れて仕方がない憎悪をあまり隠さずに口汚く父の、ようは祖母の息子のあれやこれやを勢いよく喋るからだ。

祖母は息子がとても酷い人間だと自覚し、いつも悲しんでいて、それを私は聞いていた。勘当を考えていたこともあったそうだ。Kちゃん(母)には本当に申し訳ないといつも口にしているのだ。そんな祖母も日頃から旦那(祖父)に長年に渡り酷い扱いを受け続けている。

それでも母は誰かに言いたくて堪らなかった。溢れ出るものを止めることができない。父を責めたいのに、それが出来ない。それは痛いほど伝わった、涙が出るほどに。

それを祖母がごめんね、ごめんねと悲しそうな顔で言う。私は2人の間に挟まれながら皿を洗っていた。泡のついた皿を母に渡そうとするも、受け取ってもらえない。

左で次第に声は大きくなった。見開かれた目。紅潮した顔。右では完全に萎縮した祖母。

私は耐えられなかった。

お皿を今すぐ地面に叩きつけて割ってしまいたかった。このままでは全てが憎くなってしまう。私の全てが失われる。私が歪んでゆく。

 

私は、一体なんなのか

 

「もういいよ」

母にそう言うと、いつもの激怒した顔を一瞬こちらへ向け、祖母の態度を察し一歩後ずさった。

 

私は最低だった。無力なのだ。

どうすることもできないのだ。

母の苦しみを知りながら、そう制してしまったのだから。 同時に祖母の苦しみも知っていた。

私はなんとか「家族」を繋ぎ止める糸のような役割を担っていた。それを昔は誇りに思い、高校を卒業したら家族を養いたいとすら思っていた。お金があればきっと大丈夫になる、不足した部分を私が埋めればきっとこれから上手く行く。

そう明るく未来を見ていた私は、自分の内面がボロボロであることに気づかなかった。

誰も私をケアしようとは思わないし、自分でそれをしても間に合わない。終わりがない。

 

きっとこの一連のやり取りは、女の私たちにしか共有できないこと、女相手だから強気で言えることだった。籠の中だった。このループを何年続けているのだろうか。女同士の喧嘩や言い合いは怖い なんて言い出したのもそう見えるのも、全て居間に座り酒を飲むお前たちのせいなんじゃないのか。この悲痛なやり取りは男たちに伝わるはずもなかった。そんなつもりはなかったと口を揃えて言うだろうが、あなたたちに口を封じられている。気にかけたことすらないはずだ。知る由もない。私たち女が溜まりに溜まった鬱憤や悲しみをお互いに吐き出したとして、所詮は、彼らにとって女だけの問題なのだ。

ただの内輪揉めであり、その気持ちや議論が外側へ向くことなど有り得なかった。

 

私がその場を制した後、母はどうしようもない歯痒く、むしゃくしゃした怒りを私に向けた。何度も叩かれた。祖母はそれを唖然として見ていた。

私は祖母に向かっていろんな意味を込めた「ごめんね」の一言を苦笑いで言う。

 

そして何もなかった顔で家族のいるリビングに行き、テレビを見て皆と笑い合うのだ。

 

いつかどんな形でも良いから言いたい

父、祖父よ。よく平気な顔で生きてられるな。